48年目のありがとう

「愛のコリーダ」米国初の劇場公開

主演の藤さん「大感激」

 大島渚監督、藤竜也・松田暎子主演の日仏合作映画「愛のコリーダ」(1976年作品)のノーカット版がマンハッタンのメトログラフで20日、1976年のニューヨーク映画祭試写会で上映されて以来48年ぶりに初めて米国で劇場公開された。ジャパン・ソサエティーの映画祭ジャパン・カッツの生涯功労賞受賞で招かれ来米中の藤竜也さんが劇場を訪れ、上映後に挨拶して大きな拍手を受けた。質疑応答にも応じ、観客たちから「50年ぶりのおめでとう」と声をかけられると、「ありがとう。大感激です」と笑顔で応えていた。質疑応答の要旨次の通り。(写真上:観客から祝福されて笑顔の藤竜也さん(20日午後2時、写真・三浦良一))

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 藤「大島さんの事務所で初めて台本を読んだ時、次から次へとベッドシーンがありまして、大島渚は狂ったのかと思いましたね。いったい何なんだと思い、でも何かを感じまして、もう1回、もう1回、3回読んだんですね。そしたら、ベッドシーンの向こうにものすごく美しい、ピュアな命をかけたラブストーリーが見えたんです。それで、私はそれまでベッドシーンはやったことなかったんですけど、これが怖くて、もし私が降りたら一生、断ったことが私の心の傷になって、私は表現者としてだめになると思いました。それで引き受けました。私が映画俳優になったのは東京の銀座で恋人と喫茶店で待ち合わせをしていた時に、相手が15分遅れて来たんです。その間に、日活のスカウトから声をかけられ、「あんた学生さんなら映画俳優にならない?お金になるよ」と誘われたのが映画の世界に入るきっかけでした。スカウトされたにもかかわらずエキストラばかりでお金にはなりませんでした。ある日、鈴木清順監督を訪ね、自分を使ってくれないかと頼みに行ったんです。そしたら、「使ってあげたいのはやまやまなんだけど君は私に使わせたいと思う何かがないんだよ」って言われました。使ってもらえる何かってなんだと思いながら一生懸命ギャングの役をやりましたね。あの日活スタジオにいた10年というのは、私にとってエチュード、私のベースになってます。「エデンの東」とかアメリカの映画にあこがれてましたねあの頃は。撮影の時、大島監督とはディスカッションはしませんでした。私はディスカッションは嫌いです。演技は大事なものを言葉にしてしまうと本質的なものを失ってしまいます。センシティブなものは言葉では表現できないものだと思います。撮影中は、松田暎子とのラブストーリーを完結することだけしか考えていませんから、あまりほかのことは考えてはいません。肉体は滅びても精神性だけは生きている、そういうものを表現できたらなあと思いました。私は絶食をしまして、肉体をどんどん細くしていきました。2週間で10キロくらい痩せたと思います。京都にある大映のスタジオを借りて撮影したんですけど、当時すでに日本全国で私たちのことは有名になっていて、映画の中で実際に性行為をする犯罪者みたいなことをすると、撮影所でもまるで事故にあって道に横たわっている人を見るような、なんとも言えない死人を見るような目で見られたのを覚えています。でも俳優として終わってしまっても全く構わないと思いました。(雑念から逃れるために)10年くらいスカッシュに没頭してましたね。その後2年間仕事はなかったですが、2年後にNHKからラブストーリーの主役の話が来て、 私は社会復帰ができると思いました。映画の中の歌は、知りませんでした。私は1941年生まれで、この映画は1935年くらいの話なので、練習とかしましたね、三味線とかも。微妙なベッドシーンの撮影中は、絶対他の人がスタジオに入れないようにしてました。スタジオを真っ暗にして、スタッフも全部スタジオから出て、監督と私たち2人の3人だけになって、真っ暗闇の中で、大島監督がカメラとライティングのスイッチを持って、用意が整ったら大島さんが、闇の中から「どうですかお二人、始めてもよろしいですか」と聞いて、私たちが「はいお願いします」と言うと監督がボタンをカチッっと押しまして、スタジオがパーっと明るくなって、カメラが回り始めましたね。そういう撮影もしたこともあります。全部が全部ではありませんが。1976年のニューヨーク映画祭にこの作品が上映されるということで来たのですがセンサーシップの問題で上映されず、大変残念な思いをしたのです。今回はその時以来ほぼ50年ぶり2度目のニューヨークで、やっと観客のみなさんとこうやって向かい合って、ありがとうと言えることができてとても嬉しいです」。

大島渚が国際映画人となった日

 「愛のコリーダ」の大島監督について元東宝インターナショナル代表取締役で演劇評論家の大平和登氏(故人)=写真=が次のように回想している。「大平さん、どうしたら世界に通用する映画を創ることができるんでしょうか。日本映画に欠けているものは、いったい何なんでしょうか」。完成して間もないニューヨークのジャパン・ソサエティー一階ロビーで、痩せぎすのその男は、大平に懇願するような目を丸眼鏡からのぞかせて尋ねた。「そりゃあ、作品が提起する問題の普遍性、万人に通じる問題の打ち出し方でしょう」。完結に答えた大平の前で、眼鏡の男は唸ってしばらく黙りこんでしまった。

映画の宣伝用ポスター

 眼鏡の男と会って4年の歳月が流れた76年10月1日。その男がニューヨーク・タイムズ紙のトップ記事を飾った。大島渚である。彼が監督した話題作「愛のコリーダ」がアメリカに上陸したのだ。フィルムがニューヨークの税関で没収されるかもしれないという情報とともに、作品はジョン・F・ケネディ国際空港を避け、パリからロサンゼルス経由でニューヨークに届いた。大島、大島の弁護士、大平の3人が空港から誰の手にも触れさせまいと、プリントを取り囲むように試写室に入った。プレス試写会が無事に終了した直後、試写室に踏み込んだ税官吏がプリントを押収した。この事件はニューヨーク・タイムズ紙を含め、翌日の地元紙が揃って1面で扱った。公開予定日当日は、急遽上演作品を同監督の「儀式」に差し替えたが、その晩のパーティーには、新聞記事を見て駆けつけた映画人や芸能人でごった返した。「何でも応援するぞ、大島」と群衆の中から叫んだのはジャック・ニコルソン。自らは絶対に握手を求めないことで知られたアンディ・ウォーホルが、進んで大島に握手を求めた。大平は「その晩、国際映画人の仲間入りをした大島監督の姿を見た思いがした」という。(1992年4月読売アメリカ紙に掲載。94年読売新聞社刊『どっこい生きてる日本人』収録から抜粋。文と写真・三浦良一)


■映画「愛のコリーダ」=7/29(月)21:15(英語タイトル:IN THE REALM OF THE SENSES大島渚監督、藤竜也、松田暎子主演(1976年)ノーカット版。76年NY映画祭に参加するも検閲でフィルムが没収され上映中止になり、今回48年ぶりに米国劇場で初公開。 7 Ludlow St, New York, NY 10002

チケット $17  Tel: (212) 660-0312

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