【編集後記】
みなさん、こんにちは。海外で結構長く(約40年ほど)継続して生活していると、日本人として生まれ、日本人として育ったことを誇りとして思いかつ、かなり幸せなことだと実感する一方、いつまでたっても英語力が上達せずに、しかもアメリカ人のように気軽に誰とでも気さくに話しができて、ジョークをかわして硬軟取り混ぜてうまく会話を進めていけない自分のどこに問題があるのだろうかと思うことが常々ある。多分大きくは性格そのものに起因する問題だという気は薄々する。というのは、英語ではなく、日本語なら誰とでも気さくにジョークを交えて会話ができるのかというとそんなことはないからだ。語彙力の不足や経験値の低さから、または上等な言い回しができるほどの英語力のなさから、勢い、日本語表現よりは上手い下手は別として英語の方が単刀直入にストレートな物言いになることはある。日本語で「そうね、まあ、いいんじゃないですか?」という返事と「あ、それいいアイデアだわ」という返事では、肯定的な同じ答えでもいいなとおもうバロメーターの度合いに温度差がある。それが英語だと「That’s good」で終わってしまう。まあ、その後に「fantastic! Faburous!」とか付けると、アメリカ人なら誰でもが言っているような誉め殺しの言い回しに聞こえてわざとらしいなどと白々しくなる。こんなことに悩んでいるようではこれから先も思いやられ、英語的交渉力は向上しそうにないが、今週号の高橋純子さんの「異文化コミュニケーション」の連載(8ページに掲載)を読むと、私が抱えているこの問題の原因と答えが導き出される解説が書かれていて興味深い。似たような思いを抱いている人は読むと何かの参考になるかもしれません。おりしも、今週号の1面トップ記事は「国連職員の道を目指す」試験説明会を外務省が開催という内容。国際舞台で堂々と人間味を出して好かれ、説得できる「人格」のようなものを育てていくにはどうしたらいいか、自分たちはもう遅しでも、次世代にその思いを託したいという長丁場の希望はそれでもまだ少しは持っている。日本の若者たちよ、世界はあんたの出番を待っている。頑張って! それではみなさん、よい週末を。(週刊NY生活発行人兼CEO、三浦良一)