「昭和の鴎外」が日本語る

河村 雅隆・著 文芸社・刊

 著者の河村雅隆さんは、元NHKのプロデユーサーで、ながらく報道関係の仕事をされてきた人だ。ニューヨークにもテレビ・ジャパンを放送するNHKコスモメディアの前身、ジャパン・ネットワーク・グループの副社長として2007年から2010年まで駐在した。現在は名古屋大学名誉教授として教壇に立っている。この本は、前半三分の一が大学受験から大学生へと進む青年、正道の心の葛藤と生活が描かれ、それは、なかば、私小説的な色合いを持たせながらも作者の観察眼の鋭さと描写力で日本国内の日本の青年の等身大、しかも1970年代前半あたりの頃の日本の風景と時代を色濃く描いた作品だ。東京生まれ、東大経済学部を出てNHKに入局、ニュース報道番組の最前線で活躍してきたエリート報道人としての物の考え方などが、前半の小説部分でもルポルタージュのようなリアリズムで迫ってくる。
 そして三分の二は、エッセーの短編として文芸と芸術に関わる文章群がぎっしりと詰まっている。「個性とは何か」「日本人はなぜ印象派が好きなのか」「重い社会、軽い社会」「ダメモト社会・イギリス」といった駐在経験のあるロンドンやニューヨークでの出来事や人々とのやりとりのなかから日本社会と日本人を複眼的に表現していて興味深い。
 特に、「個性とは何か」という問いについて、ヨーロッパは米国以上に個人主義が徹底しているということ。ニューヨークもかなりなものだとは思うが、フランスやイギリスは、その比ではないようだ。芸術面では大規模な美術館に行くとそこにある膨大な宗教画、鮮明で綿密に描写された写実画、肖像画の多さに作者は面喰らう。が、写真のない時代の絵画芸術に求められたものが現代とは違うこと、また、後世に残り伝えられている名作大作の後ろには膨大な数の無名のさまざまな忘れ去られた名作や作品があることも想像させる。
 自由に描くこということが制約されたルールの中でままならない状況であればあるほど、そこに人間としての自由な表現を織り込むことができるのだと筆者は綴る。がんじがらめの制約の中にこそ、芸術家としてのアーティストとしての力量を発揮できる舞台があるのだと。規定概念を打破するところに芸術が存在するなら、破るべきものがない自由の場ではアートの存在自体が成り立たないのではないかという筆者のアンチテーゼでもある。海外に暮らし日本との違いを綴った森鴎外の文章もなかで時折引用するが、鴎外と現代の作者がオーバーラップする。
 海外で日本語に接する機会は、日本語放送やインターネット、現地で発行されている日本語情報紙や新聞、日本から送られてくる新聞の国際版などあるが、この本は、日本の大企業と社会、東日本と西日本、同じ国内でありながらも企業文化や社会のありかたの違う日本の重たい空気の環境とリスクを自己責任で負わされながらも個人主義で空気自体は軽い欧米社会の人々との生きる哲学の違いが読み取れる。(三)