ザ・ボックスハウスホテル、エグゼクティブシェフ
彰子 タナワーさん
グランドセントラル駅から地下鉄7番線に乗って、イーストリバーを渡って1つ目の駅、バーノンブルバード&ジャクソンアベニュー駅で下車。ここはまだ、クイーンズ区の最近は ロングアイランドシティーと呼ばれるアストリア地区の一角だが、駅から2ブロック離れたプラスキー橋を歩いて川を渡るとそこはもうブルックリンだ。橋は1953年に建造された 跳ね橋で、現在はその橋が上がることがあるのかは不明だが無人のコントロールタワーの窓ガラスはピカピカに磨かれていた。橋を渡り切ったところにザ・ボックスハウスホテルがモダンな佇まいを見せる。
彰子タナワーさんは、このホテルでエグゼクティブシェフとして今年の4月から屋上のイベント、結婚式の監修、来年春に予定されているメインレストランのオープンに向けた準備に追われている。パンデミックが明けて、今まで結婚披露宴を何度もキャンセルしていたカップルの披露宴ラッシュが続いていて、先週は4組の屋上披露宴パーティがあり大忙しだという。
東京都出身、日本で中学から短大まで女子美でインテリアデザインを学んだが、社会に出てからは出版編集プロダクションで雑誌やインテリア関係の広告制作のグラフィックデザインの仕事に就き、その後25年前の25歳の時に来米し、ハンターカレッジの語学学校に通って1年で帰国するはずが、25年たった現在もニューヨーク在住に。「来たときにもう帰るつもりはなかった」という。
子供の頃から海外に目が向いていた。大手旅行代理店に勤めていた父親は1年の半分は海外だったが幼少の頃から家族を海外旅行に連れて行ってくれた。世界中の食べ物も味わった。父親は食べものには哲学があり、寿司と天ぷらと焼き鳥はカウンター以外では食べないというポリシーがあった。日本の食文化を家庭で学ぶ機会が多かった。父親の弟(叔父)は有名な写真家で、作家の藤原新也さん。小さい時から可愛がってもらい、父親同様世界の広さを教えてくれた。大きくなったら海外で暮らしたいという思いの芽と料理の舌は幼少期に育まれたようだ。
22年前に元夫と結婚。15歳の双子の娘がいる。結婚当時雑誌の編集の仕事をしていた夫に弁当を作りそれが編集部で話題になり彼の同僚にも作るようになる。その料理が評判となってニューヨークタイムズ紙の記者の耳に入りフードセクションで記事になった。
その後トライベッカのNOBUの門をたたき運良く採用されラインクックとして一番下のポジションから始めることになる。その後、イレブン・マジソンやシェーク・シャックなどを経営するレストラン王ダニー・マイヤーのケータリング部門、マイ・オウンレストラン、ミッション・チャイニーズ、フードウェブサイトのテイスティングテーブル、アイバン・ラーメンなど個性の強い店からファインダイニングまでこなすことになる。今年でキッチンに立ち17年目を迎える。
中華、和食、ニューアメリカンなど何でも一通りこなす。「職人へのリスペクトはありますが、毎日同じものをコツコツと作り続けるタイプではなくて、シーズンの野菜やローカルの食材を使って感性でひらめいたものを作るのが自分のスタイルだと思っています」。結婚式のパーティー料理の企画も大きな仕事。新しい食材を組み合わせた創作料理もどんどんと手がける。色、味、盛り付けも実にクリエイティブだ。青リンゴとセロリのシャーベット、鱒の卵を使った料理、豚バラのポークベリーにレモングラスの出し汁かけ、雲丹トーストとどれも美味しそう。プライベートでは現在、娘たちからの影響を受けてダンスにも熱中している。14時間立ちっぱなしの仕事のため、体力勝負だ。マンハッタンから一駅で150人規模の結婚披露宴が屋上でできるホテルがあることは「あまり日本人は知らないと思いますけど、こういうホテルがあることももっとニューヨークの皆さんや日本の人に知ってもらいたいですね」と話した。 (三浦良一記者、写真も)