キスとハグのおすそ分け

ニューヨークの魔法
岡田光世

 その年のバレンタインデーの朝を、さみしい思いで迎えた。アメリカでは、男性が女性に贈り物をする。夫は日本にいる。何も贈ってくる気配はない。仕事以外の予定は、何もない。 

 もらえないなら、あげればいいか。喜んでくれそうな友人を思い浮かべているうちに、ふと、マンハッタンの雑踏のなか、ビル風に吹きさらしにされ、冷たい路上にひとりで じっとすわっているホームレスの人たちを思った。 

 そうだ、ホームレスの人たちにチョコレートをあげよう。私は突然、思い立ち、さっそく買いに出かけた。この日のために並んだチョコレートの棚のなかから、ひとつずつ 包まれ、外側に「X」か「O」と書かれているものを選んだ。英語で「X」はキス、「O」はハグの意味がある。 

 街中の教会や非営利団体で、無料で食べ物を配給しているし、お金や飲み物をあげる人はほかにもいる。でもチョコレートはしばらく口にしていないかもしれない。一瞬で温かい気持ちになってくれたら、うれしいではないか。 

 地下鉄に乗ると早速、ホームレスの人が車両の隅のシートを三人分占領して、寝そべっていた。でも、顔が見えないし、ぐっすり寝ているのかもしれない。周りの人たちの視線も気になって、声をかける勇気がなかった。 

 人の集まるタイムズスクエアで、降りることにした。観光客で最もにぎわっている場所から少し離れた歩道脇の地べたに、青年がうなだれてすわっていた。右手はポケットに入れたままだ。人がひっきりなしに行き来しているが、誰も足を止めない。 

 前に友人のゲイルがベーグルを買ったときに、店の計算違いで安く払ったうえに二個もおまけにもらったので、珍しく親切心を起こして、いつも見かけるホームレスの男性にベーグルをあげようとした。 

 ところが、ベーグル? なんでオレがベーグルなんかほしいんだい? オレはベーグルなんか、ほしかねえよ、とその人にどなりつけられた、とゲイルが憤慨していた。 

 向こうでうずくまる青年はおとなしそうだが、ぐいっと顔を上げ、突然、怒り出すかもしれない。 

 チョコレート? なんでオレがチョコなんかほしいんだい? オレはチョコなんか、ほしかねえよ。チョコなんかじゃ、生きられねえんだよ。バレンタインだと? そんな 甘っちょろい世界は、オレたちにカンケーねーんだよ。

 悪いほうに大きく妄想がふくらむなか、しずしずと青年に近づいていく。

 Happy Valentine’s Day.(幸せなバレンタインデーを) 

 笑顔で声をかけて、チョコレートをいくつかそっと差し出した。 

 青年は驚いた顔で私を見てから、Thank you. とほほ笑み、受け取った。

 世間話をするにも、何を話題にしていいものかわからず、バーイとだけ言って、そのまま立ち去った。 

 食べてくれるだろうか。捨ててしまうだろうか。気になり、ふり返った。

 青年は左手だけでチョコレートの包み紙を開けようとしているが、うまくできず、悪戦苦闘している。右手は使えないのか。 

 思わず、彼のところへ引き返した。私が開けましょうか、と声をかける。

 ありがとう。けがをしてしまって、右手を使えないんです。

 彼の目の前にある段ボール紙に、自動車事故で負傷しました、と書かれている。

 事故にあって、一年くらい前からこうして路上で生活しているという。

 I’m a clean person. 

 僕はきれい好きなんだ。 

 だから、こんな生活は耐えられない。でも、仕方がないんだよね。

 チョコレートの包みをほどくと、彼が思わず口を開けた。 

 私も思わず、はい、あーんして、と言わんばかりに、自分も口を開けて、彼の口に入れてあげそうになった。目が合い、ふたりで笑った。 

 幼い頃、母親にこうして食べ物を口に入れてもらっていたのだろうか。ガールフレンドか妻が、愛情の証にそうしてくれた思い出があるのかもしれない。 

 つい先日まで仕事があって、ごくふつうに生活していた人が、人生でちょっとつまずけば、一転して路上生活者になってしまう。ニューヨークの不動産は年々上がり、失業すれば、すぐに家賃が払えなくなる。      

 暖かい春がやってくるから、今しばらくの辛抱だね。 

 そんな思いを込めて、彼の左の手のひらに、包みから出したチョコレートをそっとのせた。 

 甘い。美味しいなぁ。

 そう言って青年は、ゆっくりチョコレートをなめている。 

 私もゆっくり、包み紙をもうひとつ、青年のために開けている。 

 このエッセイは、文春文庫「ニューヨークの魔法」シリーズ第9弾『ニューヨークの魔法は終わらない』に収録されています。

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