ダンスで日米交流に貢献
ニューヨークで「サエコ・イチノヘ・ダンス・カンパニー」の芸術監督、振付師として活躍した一戸小枝子さんが5月7日、ニューヨーク市内の病院で死去した。84歳だった。新型肺炎コロナウイルスに感染して入院していた。身元後見人が明らかにした。
一戸さんは1968年フルブライト留学生として来米し、70年「サエコ・イチノヘ・ダンス・カンパニー」を創設。以来、同カンパニーを率い、舞踊家、芸術監督・振付師として活躍する傍ら、76年ミュージカル「パシフィック・オーヴァーチュア」(「太平洋序曲」)初演で、ブロードウェー・デビューを果たしたモダンダンサー。同カンパニーは公立学校などの文化教育プログラムへ積極的に参加するなど、日米の草の根交流に尽力した。米国各地での公演を手掛け、米国人の日本文化に関する関心を高めたことで2006年に海外で対日理解の促進と友好親善の増進に貢献をしてきた個人、または団体に、年一回贈られる「外務大臣賞」を受賞している。晩年は自ら「文化の架け橋賞」を設け、日米関係の要人や日米の芸術家に、毎春、賞を贈呈。社会的な意味でも話題を提供した。
仙石紀子さんの話「一戸さんが新型コロナウイルスでお亡くなりになったと聞いて大変驚いています。リヴァーデールのシニアのホームへ行った折はお元気でいらっしゃいましたのに。一戸さんは60年代にジュリアード学院でモダンダンスを学び、70年代にご自分のダンスカンパニーを編成され、公演を続けていらっしゃいましたダンサーのパイオニアの一人でした。ジャパンソサエティーやアルビン・エイリー・ダンス・センターで勢力的に発表されていた源氏物語のシリーズは、日本の古典の優雅な舞とモダン・ダンスの躍動感を融合させた美しい舞台で一戸さんならではのものでした。一戸さんのダンスがそうであるように日米文化の架け橋とあらんとして、カンパニーの理事の人たちで設立した文化の架け橋賞は、日米文化交流に貢献した人に贈られていました。一戸さんこそその大賞を受け取られるのにふさわしい人でした。安らかにお休みください。合掌」(舞台評論家)
人物伝
ダンス通じ日本文化紹介
「言葉を使ったコミュニケーションが下手だったので、身体で表現をするダンスを始めたの」とはにかんだような笑顔を見せた。一戸さんは、1970年にダンスカンパニーを設立して以来日本文化に触発されたコンテンポラリー・ダンスを全米各地で公演。また米国内の小中学校を訪問し、日本文化を広める教育プログラムを長年行っていた。その功績を認められ、2006年には外務大臣表彰を受賞した。
来米は68年。日本のアメリカ文化センターで開催された米国人のダンス講師による講習会でフルブライト奨学金のことを聞いたのがきっかけだった。同奨学金で渡航費を得ると同時に、マーサ・グラハムのダンス・カンパニーから1年間のスカラシップ、さらにボストンのバレエ団が主催する振り付けのコンペで優勝。その時の賞金500ドルを生活費に充て、ニューヨークにやって来た。
ダンス・カンパニーを作ってから資金集めのために企業などにレターを書く作業が大変だったと振り返る。「もともと言葉が苦手でダンスを始めたのに、結局書かなくてはならなくなり、しかも英語なので苦労しました。大企業だと、少しでも文法を間違えるとダメです」と話していた。
最初は米国の公立学校を訪問し、バージニア州、テキサス州、ニュージャージー州などを休む間も無く訪れ、教えた子供たちは40万人に上る。同カンパニー理事でもあった舞台芸術監督のベアテ・シロタ・ゴードンさん(故人)は2011年の40周年記念公演後「東西ダンスの融合をオリジナルスタイルで見事に改良して素晴らしいパフィーマンスにした」と称えた。(三)
折原美樹さんの話「一戸さんとは、私が1980年代初期に初めてお目にかかりました。いつもエレガントに、背筋を高く、綺麗な方でした。日本の文化をニューヨークのモダンダンスに取り入れた踊り、日本からこちらに来てすぐの頃は不思議に思いましたが、時が経つにつれ、一戸さんのやってこられたことがどれだけ大事だったのかを実感しております。今シリーズ化しているソロ公演、昨年は3回目でした。次の回では日本からこちらに来て、ダンス世界に多大な影響を及ぼしたダンサーの作品を集める予定です。一戸さんの作品もその中にあります。今の私も含め、日本から来るダンサーにとって先輩の方々なしには、今のように楽に踊りの世界に入ってこれなかったのだと思います。一戸さんのされてこられたことが無駄にならないように続けていくことを忘れてはならないと思っております。ご冥福をお祈りいたします」。(ダンサー)