旗手 啓介・著 講談社・刊
1992年4月から、私は非営利団体職員としてカンボジアの首都プノンペンで仲間2人と暮らし、地雷被害者のための職業訓練校の準備をしていた。この惨劇は翌93年5月4日に起きたが、詳細は長らく闇に葬られたかのようだった。
平和維持活動に加わった日本のお巡りさんたち75人が赴任した地は戦場だった。しかし、「安全だから派遣する」という大原則のもと、彼らは武器を持てなかった。当時は内戦を終結させて共産国から民主主義国家に代わるため、明石康氏率いる国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が発足。タイ国境にいた難民2万人以上が帰還して、国連関係者や世界中の援助団体が活動を始めた。皆やっと平和な国になると思っていた。でも地方では内戦は終わっていなかった。
日本政府は、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊派遣を決定。極めて安全なタケオ州にいた自衛隊は初の海外派遣とあって注目を浴びたが、命を落とした高田晴行警部ら文民警察官についてはほとんど報道されなかった。私にとっても自衛隊員は日本の食料をもらったり駐屯地での正月祝いに行ったりと身近な存在だったが、文民警察官は縁遠かった。一度だけ、活動地に向かう際にメコン川を渡るフェリーで2人の文民警察と会った。「毎晩戦闘の音がすごいですよ」と諦めの笑みを浮かべながらも使命感に燃え毅然として赴任地へ急ぐ姿が印象的だった。本書で、彼らの壮絶な体験を改めて知った。
93年に入ると、ポル・ポト派が5月に控えた選挙をボイコットすると宣言して戦闘を再開。選挙監視員として地方で活動していた友人が「脅迫状が来た」と避難してきた。安全が守られないと母国へ帰る仲間も多いと言い、彼女も任務を続けるか悩んだ。安全な首都にいた私たちも不安になった矢先、選挙監視員の中田厚仁さんが何者かに撃たれ、数週間後、高田さんが殺された。私たちには派遣団体から帰国命令が出た。
事件から約10年後、高田さんが活動していた村へ行く機会があった。安全になったとはいえ当時ここに日本人がいたとはと驚くほどの僻地だった。知人の案内で、村長が保管している高田さんの遺影を見た。知人は「事件は封印されているが、子供さんたちが大きくなった時にきっとお父さんの最期の地を訪れたいと思うだろう」と言い、記念学校建設を進めていた。本書によると、2014年には「タカタハルユキスクール」ができ、高田さんの母校、岡山県倉敷南高校の生徒が「グローバル研修」の一環として訪問しているそうだ。
本書は、16年にNHKのドキュメンタリー番組の取材をもとに番組ディレクターの旗手啓介氏が書き下ろしたノンフィクション。安全ではなかった地でのPKO活動を語る元同僚や関係者らの正義感が強く伝わる。あとがきで、高田さんの母や妻の心のつっかえがとれたと知り、著者ら制作スタッフと同様、私も安堵した。(小味かおる)